先週末、金曜日と土曜日に会社の社員研修で九州は鹿児島市内に行っておりました。私の妻の実家も鹿児島でして勝手知ったる所と思いきや、実は実家は大隅半島。錦江湾を挟んで反対側になりますから、市内に行くのは10年ぶりくらいになるのかな?
研修終了後宿に戻ったのですが、宿泊先がなんと城山の麓でした。翌日は自由時間があるので、こりゃ朝から市内の史跡巡りが出来る! と、ひとりだけ小躍り状態。同僚はきっと変な目で私を見ていたんでしょうね。

宿から撮影した城山。撮影位置は城山の南西でして、丁度城山攻撃時に政府軍の第三旅団が駐屯していた辺りかと思います。画像左に写っている鉄塔辺り、その山の裏側が西郷隆盛が本陣を敷いた「西郷洞窟」の跡辺りかと思います。
この城山の南側は薩摩の城下町。麓には鶴丸城(鹿児島城)があり、お城の背にはこの城山が。西には川、南東には錦江湾と天然の「堀」が巡らされている形になっており、堅固な守りを誇っていたのだろうと思います。
宿から少し東に歩くと鶴丸城が。

本丸には現在博物館が建っておりその面影は石垣しか無いのですが、内堀が見事でさぞ立派なお城だったのだろうと想像できます。

鶴丸城の東側は西南戦争の鍵を握った私学校跡。現在は病院が建っておりますが、多分その敷地の石垣は当時のものだと思います。その証拠となるのが西南戦争の激しさを今に残す「弾痕跡」です。

石垣の所々に銃弾の跡が残っております。
京都の蛤御門には木製門にめり込んだ銃弾がいくつか残っているのですが、こちらは石垣とあって銃弾は見つかりませんでした。これだけの跡が残っているならば、石垣の隙間に銃弾が1発くらい残っていたとしても不思議じゃないのですがね。もしかしたら私の探し方がまずかったのかもしれません。

鶴丸城の西側には有名な西郷隆盛の像がおかれています。
城山の西郷洞窟前には↓木造が置かれていましたが

それぞれ表情や特徴が異なる西郷さん。空港にも大きな像がありましたが、西郷隆盛の像って日本国中探したらどれくらいあるんだろうかな?
この他、西郷洞窟や西郷隆盛終焉の地など廻ってきたのですが、そちらの様子はまた機会があれば紹介したいと思います。
ところで、誰か『西南戦争』のシミュレーションゲームかボードゲームを作る人はいないのかなぁ……。テーマとしては面白いと思うのですが。
研修終了後宿に戻ったのですが、宿泊先がなんと城山の麓でした。翌日は自由時間があるので、こりゃ朝から市内の史跡巡りが出来る! と、ひとりだけ小躍り状態。同僚はきっと変な目で私を見ていたんでしょうね。

宿から撮影した城山。撮影位置は城山の南西でして、丁度城山攻撃時に政府軍の第三旅団が駐屯していた辺りかと思います。画像左に写っている鉄塔辺り、その山の裏側が西郷隆盛が本陣を敷いた「西郷洞窟」の跡辺りかと思います。
この城山の南側は薩摩の城下町。麓には鶴丸城(鹿児島城)があり、お城の背にはこの城山が。西には川、南東には錦江湾と天然の「堀」が巡らされている形になっており、堅固な守りを誇っていたのだろうと思います。
宿から少し東に歩くと鶴丸城が。

本丸には現在博物館が建っておりその面影は石垣しか無いのですが、内堀が見事でさぞ立派なお城だったのだろうと想像できます。

鶴丸城の東側は西南戦争の鍵を握った私学校跡。現在は病院が建っておりますが、多分その敷地の石垣は当時のものだと思います。その証拠となるのが西南戦争の激しさを今に残す「弾痕跡」です。

石垣の所々に銃弾の跡が残っております。
京都の蛤御門には木製門にめり込んだ銃弾がいくつか残っているのですが、こちらは石垣とあって銃弾は見つかりませんでした。これだけの跡が残っているならば、石垣の隙間に銃弾が1発くらい残っていたとしても不思議じゃないのですがね。もしかしたら私の探し方がまずかったのかもしれません。

鶴丸城の西側には有名な西郷隆盛の像がおかれています。
城山の西郷洞窟前には↓木造が置かれていましたが

それぞれ表情や特徴が異なる西郷さん。空港にも大きな像がありましたが、西郷隆盛の像って日本国中探したらどれくらいあるんだろうかな?
この他、西郷洞窟や西郷隆盛終焉の地など廻ってきたのですが、そちらの様子はまた機会があれば紹介したいと思います。
ところで、誰か『西南戦争』のシミュレーションゲームかボードゲームを作る人はいないのかなぁ……。テーマとしては面白いと思うのですが。
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